初期のガストロ

(「追想 宇治達郎」、宇治達郎追悼集編集会、1986. 11. 13 より)

 昭和二十四年五月過ぎ、外科学会も終って、当東大分院外科医局においても林田医長を初め医局員もほっとした頃、私は渡辺富雄氏の紹介状を持って渋谷のオリンパス光学KKを訪ねた。幸いにも常務取締役の中野氏が快く面会をして下さった。私は胃内撮影のための小型カメラを製作することでこれが可能なものか否かの目安と、可能ならば製作依頼とを兼ねていた。当時終戦後の混乱も回復せず、生活事情も悪かった。オリンパス光学KKも工場と研究所が山手線際の荒れ果てた家屋の中にあった。中野常務も私の話を開いて大変興味を感ぜられたらしく、早速研究室の杉浦氏を紹介して下さった。私は持参した桐原氏の著書「胃鏡診断法」を見せ、医学上の立場から食道と胃との関係、胃の構造、大きさ、粘膜の具合等を述べ、さて小型カメラを直接胃中に挿入して撮影することが可能と思うが、カメラ並びにレンズ製作者の立場から製作可能かと尋ねた。杉浦氏は暫く考慮の後三日出来ると確言した。この言葉はその後の仕事中に色々の壁に衝突し私はその都度部分に捗る説明を求めるときも彼は少しも迷うことなく、誠に頼もしい発言をする男であると肝に銘じたものであるが、この初対面に言った可能 のことばは私を勇気づけた。私は先ず手始めに自分の着想にもとづいて今から思えば余り上等でない小型カメラ部品のみを製作して見ることにした。大宮市内の小さな旋盤工場を訪れて真鍮を素材として「いんろう」型に割り一部を円窓にして画面を鏡に写し、更に「レンズ」を透して上面に「フィルム」を差し込む方法をとった。「レンズ」は有り合せの顕微鏡の先き玉を使用した。こんな事は今から思えばレンズの焦点距離等から計算すれば画像の範囲も定まることで、机上の計算でわかることであるが、鏡に写る像を仲介として撮影する方法も面白いと思ったが、杉滴氏は獣州ってこの上等でない小型「カメラ」を使用しての実験に研究室及び暗室の使用を許可してくれた。私の渋谷参りはこの時から始った。午後になると医局の許可を貰っては居たが、医局に失礼してオリンパスの会社へ出かけて行った。併し中野常務にはそれ以後お会いしている訳でなし、渋谷の研究所内の私に関する行動をどの程度許可しているかわからぬ状態で薄氷を踏む心持ちでいた。さて切除胃の標本を撮影して見るとこの型でも撮影は出来るが、映像範囲の狭いこと、小型に使用する豆電球の光度、フィルムの感度、更に螺管 、操作部の点一つ一つ解決していかねばならなかった。豆電球を製作する工場を尋ねたり、ビニール工場を訪ねたりした。研究室を出ると薄暗くなった道を山手線を越えて小さな「コーヒー」店に寄った。中々うまいのを飲ませる所で、しやれた壁、ボックスがあり一杯のコーヒーをすすりながら本日の成果、失敗を語り、次の方針を定め、更に位相差顕微鏡の話が出たり、雑談が出た。私は杉浦氏の話に引かれつつ聞き手に廻っていた。誠に良い思い出の店である。

 ある程度の目安のついた頃研究所内の深海氏がこの器械の製作を引き受けることとなり、三人で完成に努めることになった。詳細な図面が引かれたり、土肥氏の特殊レンズの設計等々、各部に捗って会社が動き出して来た。この様な状態になると、餅屋は餅屋で仕事がぐんぐん進んで、私は器械の組み立てられるのを待っている様な状態となった。昭和二十五年になって私と深海氏がオリンパス諏訪工場にて組立てることになり、深海氏に同行して信州諏訪湖畔を訪れ、深海氏苦心の組立てを手伝いながら数日を過した。これがほんとに飲み込めるかと技手連中はいう。私がのんで見ても良いが入れてくれる人が素人ではね、と冗談をいい合った。期待にふくれて机上実験、試写、アングル等を行い「ガストロU型」が出来上った。帰京後犬の胃を撮影して見ることになった。医局においては今井先生が極力援助して味のある助言を惜しまなかった。フィルムは現在の様に「マガジン」に収められている訳でなく、暗室でカミソリの刃を当て細く長く切り、これを巻き込んで使用した。手を使ってのカットで波形に切れたりして撮影毎の巻き取りに失敗する公算も大であった。麻酔を使わず、犬を固定して胃窓 を作り「ガストロ」を入れて操作することも上手になり、お蔭で他の医局員の犬の固定を手伝わされた。犬の数も少くて犬探しに出かけたり、一頭の犬を十日位の問おいて三回も開腹して使用したこともあった。どうやらU型を使って好成績を収めて、臨床に使用しても良さそうという訳で失敗を重ねながら使用していた。

 昭和二十五年六月頃、私はアッペの手術後、イレウスを起して分院に入院していた。丁度先輩の坂本(馬城)先生が胃潰瘍で手術をするが、「レントゲン」で潰瘍は発見したが「カメラ」で確認して見よと医長の注文で、それをせぬ内は手術はしない、宇治君よ早速撮影して見てくれという。術後の腰痛がとれず、うなっている小生の「べッド」 へ来ての談判に致し方なく、及び腰にやることとなった。手術室で六枚ばかり、アップだダウンだと「カメラ」を向けている中に、何としても「フィルム」が巻き取れず失敗と思ったが、現像の結果すばらしい写真となり、展開図となり表紙を飾る成功例となった。うらめしさが感謝となった訳であるが、撮影後はべッドでうなり通していると、翌日には坂本先生が一日も早く開腹したいから、このべッドに入るに付いては直ぐ退院せよといわれ、うなりうなり退院した。昭和二十五年十月未頃、失敗成功の繰返しを行っている中、どんな関係か、この 「カメラ」を新聞社が取り上げて報道することになり、会社としてはこの上もなく良い宣伝となり喜ぶ所となったが、小生はいささか閉口気味であった。私は努めてこの器械が常に成功とは限らぬこと、色々の 面で不充分な点を主張して来た。報道後は会社もより積極的となって一応我々の努力は報いられた。

 その後改良を重ねて、昭和二十六年会社方針として、全国的に広く臨床に使用して戴き、その短所を見出し、改良の意見を取り入れ、改良毎に旧型を新型と取りかえる方針の下に販売に乗り出すといわれた。併しながら私は未だその時期にあらずと極言した。当時杉浦、深海氏と小生の三連名で特許を得たが、権利は会社のものであり、慎重論はここに至って退けられた。「カメラ」使用の説明書を作るに、医局名、主任教授の承認を得ずして記載したことの注意を受けて小生のうかつさをなげいた。U型の出来る頃、岡谷の病院においても会社の近くにあり、院長が特に興味をもって、これを使用することになり、諏訪工場長、杉浦、深海氏等と共に出張して使用方法を説明したりした。私はその帰途、諏訪湖畔において「スケート」を初めて行い、案外うまく滑れて楽しかったことが印象に残っている。医局においては二宮例位の臨床成蹟をあげよといわれ、今井先生と努力した。彼はその後、天然色撮影に進展していった。

 小生が学生時代、ポリクリを指導して下さった当時外来医長であった田坂教授の下でも色々の点で扱いにくいこの 「カメラ」を騒使し、改良の意見を呈出され、我々の仕事を上廻る成績を発表した。その積極性は驚異に値することであった。

 昭和二十九年五月「ガストロカメラ」が発明特賞を得たことは光栄であった。