オリンパス光学中坪寿雄氏へインタビュー もどる

(応用物理、第67巻、第9号(1998)に掲載の OYO-BUTURI INTERNATIONALを許可を得て翻訳しました)

中坪寿雄氏に胃内視鏡の研究開発の仕事についてお話を伺いました。  第二次世界大戦以降の医学と外科の技術的進歩には目を見張るものがある。日本で特に発達したのが胃ガンに関する研究である。胃内視鏡は胃ガンやそのほか胃腸の病気の診断に欠かすことのできない道具となっている。 この 40 年間におけるこの技術の進歩は様々な分野からの研究者が寄与している。 胃内視鏡のごく初期からその技術開発の中心にいたのが中坪寿雄氏であった。 このインタビューではこの技術の開発の裏話を聞かせていただく。胃内視鏡は現代の健康管理の重要な一部となっている。これは日本だけでなく、世界中で数え切れない人の命を救ったのである。

OBI: 内視鏡関連の研究をはじめたのはどういうきっかけですか。

中坪: ずいぶん前になります。私がオリンパスに入社したのは 1949 ですが、その時東京大学医学部の宇治先生が胃の内部を観察する方法について研究をされていました。彼は胃ガンを非常に初期に診断できないかと考えていました。そのころ多くの研究者が胃ガンについて研究していたのです。それは日本で胃ガンの発生数が増加し、ガンの初期診断が緊急の課題になってきた頃です。

OBI: その当時診断にはどんな方法が使われていたのですか。

中坪: X 線診断はそのころからありましたが、問題がありました。X 線診断は間接的な手法で、ガン領域がまだ小さい初期ガンではよく写らない場合があります。そこで彼らはガンの兆候を光学的に直接観察したいと考えていました。胃の中を直接見ようという考えは 100 年前からありました。その頃は金属のパイプを使いました。しかしこの方法は基本的に問題があって、本格的には使われませんでした。 当初の開発の目的は胃の中を直接見るのではなく、胃の内壁の写真を撮ろうというものでした。そこで東京大学のグループは胃の内部の写真が撮れるカメラが開発できないかとオリンパスに接触したのです。これが始まりでした。 私が入社してまもなく、上司の杉浦氏がこの企画について話してくれました。我々は「ガストロカメラ」と呼んだこの装置の開発のための小さなグループを作りました。

OBI: 開発は難しかったでしょうね。

中坪: そのとおりです。胃の中に挿入できて、しかも鮮明な写真が撮れるカメラをどうやって作るかが大問題でした。1949 年当時はまだ様々な技術も発達しておらず、装置の材料も手に入りませんでした。われわれはレンズとフィルムと光源が必要でした。幸い当社はその時すでに超小型レンズを作成する技術を持っていました。そこで最初の課題は胃の中を照らす光源を探すことでした。胃の中は真っ暗なのです。われわれは胃の中に挿入できる小さなランプを開発することでこの問題を解決しました。次はフィルムでした。まだカラーフィルムは手に入らなかったので、白黒フィルムを使いました。汎用の 35 ミリフィルムは大きすぎるので、5 ミリ巾で 20 枚撮りのフィルムを開発しました。このフィルムをマガジンに収めました。こうしてレンズとフィルムと光源がそろいました。次の問題はこれらをまとめて収納することでした。「ガストロカメラ」の最終版は小指の大きさでした。この大きさなら胃の中に挿入することができ、写真を撮ることができます。しかしまだ問題がありました。どのようにしてフラッシュを焚くのでしょうか。そのころ通常のフラッシュにはマグネシウムのバルブが使われていました。まだキセノンガスのフラッシュは開発されていませんでした。またランプを取り替えずに 20 回フラッシュが焚けることも必要です。そこで私はタングステンのフィラメントを使った極小の電球に高圧電気を短時間流すことにしました。そうするとフラッシュの効果がでます。最初は電球は 1、2 回しか使えませんでしたが、電気量や時間を調整することでひとつの電球で 20 枚の写真がとれるまでになりました。 このカメラは昔からあるピンホール・カメラのようなものです。このカメラにはシャッターがありません。フラッシュが焚かれると感光します。レンズは f=11-12 の口径で、非常に小さいものです。コントラストの高い像を撮るためにフィルム感度は ASA20 を使いました。 カメラはできましたが、これを実際に胃の中に差し込むためのパイプがもう一つの問題でした。材料の選択が重要でした。このパイプは柔軟で、しかも堅くなくてはなりません。矛盾した要求です。時間がかかりましたが、最終的に直径 12 ミリの実用になるパイプが完成しました。ここまでくるのに 3-4 年かかりました。しかしまだ臨床に使うにはさまざまな実験をする必要がありました。最初はフラスコとビーカーを使って試しました。たとえば胃壁から適切な距離を保つことも問題でした。5-6 センチの距離で撮影する必要があります。これを解決するために胃に空気を吹き込むことにしました。カメラが実用になるまでに、多くの問題を解決する必要がありました。

OBI: この技術の特許は出願されましたか。

中坪: はい。正確なことぱは覚えていませんが、「遠隔操作のできる極小カメラ…」というような特許だったと思います。この特許によってオリンパスは内視鏡の 80% のシェアを確立することができたのだと思います。これは非常に単純な特許で、うち破ることは難しかったのです。

OBI: 当時他のところで類似の研究をやっていたグループはなかったのですか。

中坪: あったかもしれませんが、われわれのレベルまでたどり着いたのはありませんでした。しかしまだ問題がありました。このカメラで撮った白黒写真では細かいところが分からず、診断には使えなかったのです。そこでカラーフィルムが必要になりました。しかし当時いわゆるカラーのポジフィルムは日本にはなかったのです。米国のイーストマン・コダックや英国のイルフォードは作っていたので、結局米国からカラーフィルムを購入して、5 ミリ巾に加工しました。現像工程も調整が必要でした。しかしカラーフィルムを使ってやっと十分診断に役立つきれいな写真が撮れるようになったのです。最初の「ガストロカメラ」は1955 年に発売されました。

OBI: この新しいカメラを使った医師の反応はどうでしたか。

中坪: まだ問題がありました。ファインダーがついていないので胃のどの部分を撮影しているか判りませんでした。「めくら撃ち」だったのです。ある医師が暗闇で撮影することを思いつきました。胃の中でフラッシュが光るのを見て、大体どこを撮影しているかの見当がつけられました。 もう一つの問題は撮影から検査までの時間がかかったことです。即時に見られるわけではありませんでした。フィルムを現像してスライド・プロジェクターで見るのですから、当時は診断までに一週間はかかりました。

OBI: このカメラについての情報を交換する学会や会議のようなものはありましたか。

中坪: はい、ありました。1955 年に東京大学のグループを中心にして最初の「胃カメラ」研究討論会が開かれました。これは現在の内視鏡学会の前身です。中心となったのは田坂教授とそのお弟子さんで新宿の東京医科大学にいかれた芦沢真六教授でした。彼らはこの技術を利用しようという日本中の研究者を集めました。我々はこの技術の使い方についてのデモンストレーションをおこなつて支援しました。

OBI: 外国での胃内視鏡への反応はどうでしたか。

中坪: 日本では胃内視鏡は急速に広まりましたが、米国や欧州の医師はほとんど興味を示しませんでした。私の考えでは、これは撮影された写真の解釈にまだ確信が持てなかったことと、新技術を使用する事への抵抗があったと思います。したがって 1950 年から 1960 年にかけては日本国外ではほとんどこの診断法は使われませんでした。

OBI: この分野での次の革新はどんなことでしたが。

中坪: 1960 年に「ファイバースコープ」のアイデアが出てきました。これは東京医科大学の芦沢教授のヒントによるものです。彼は米国に旅行したとき光ファイバー技術がファイバー・スコープとして使われているのに関心を持ったのです。彼は胃の内部を観察しながら同時に写真を撮りたいと考えました。それ以降、私の研究テーマの中心はこのための技術開発になりました。

OBI: ファイバースコープの技術のどこが一番難しかったのですか。

中坪: 最初の問題は 2 メーター以上の距離を光量を減らさずに光を導くグラス・ファイバーをどうやって作るかということでした。当時はそうした技術はなかったので、私は特別のプラスチックを使って繊維の束を作ることにしました。問題はプラスチック繊維の中では光は 10-15 センチしか届かないことでした。そこで全く完全に無色のガラス繊維の束を開発することになりました。この繊維は直径数ミクロンしかありませんでした。実用的な「単繊維」の「イメージガイド」を開発するには実際には 4-5 年かかりました。これは 1965 年に初めて発売されました。

OBI: また伺いますが「ファイバースコープ」に対する医師の反応はどうでしたか。

中坪: 大成功でした。これは日本でも外国でも大評判になりました。これでその場での診断が可能になったのです。この技術に関する最初の国際学会が 1966 年に東京で開かれました。以後さまざまな改良がおこなわれ、いろいろな種類の「ファイバースコープ」が開発されました。

OBI: その後どんな問題が解決されましたか。

中坪: 1966 年までに観察しながら写真が撮れない「めくら撃ち」の問題が解決されましたが、次の問題は客観的な診断ができないという問題でした。私がファイバースコープを覗いてある画像を見たとして、次に別の人が覗いたとき、必ずしも同じ画像を見ているとは限りません。我々は同時に同じ画像を見ることはできませんでした。多数の人が同時に画像が見られるように、カラービデオモニターが必要でした。このビデオモニターシステムの開発が次の課題でした。

OBI: ビデオモニターのためにどんな技術が必要でしたか。

中坪: 静止カメラのかわりにビデオ・カメラを開発する必要がありました。半導体技術の進歩により選択の幅が広がっていました。この場合 3-4 平方ミリ位の極小のビデオカメラが必要でした。このための高解像度 CCD カメラの開発には結局 10 年かかりました。こうして「ビデオスコープ」が完成し、1985 年に発売されました。

OBI: この技術はどこが優れていましたか。

中坪: ビデオスコープによって客観的な診断ができるようになりました。ファイバースコープのチップの先端に特別のアタッチメントを付けて、小規模の手術かできるようになり、生命にかかわるガン領域を大規模な切開手術なしに除去できるようになりました。これは入院期間を短縮するので社会的貢献が大きいと思っています。 私自身も結腸の腫瘍を内視鏡手術で除去しています。この技術は多くの人の時間を節約するばかりでなく、生命も救っています。この結果内視鏡は受動的な道具から主動的なものに変わりました。見るだけでなく手術もできるのです。これは 1950 年の最初の「ガストロカメラ」の開発から数えて第三世代ということができます。

OBI: この技術の未来はどうでしょう。第四世代はどんなものになりますか。

中坪: 次の目標ははっきりしています。マイクロマシーンです。医師からはいくらでも要求がでできます。彼らは決して満足しません。最重要なテーマは二つあります。まず局所麻酔なしで、患者に不快感を与えることなく使用できる内視鏡を開発すること、それからもっと広範囲な手術に使える内視鏡を開発することです。

OBI: その目的にマイクロマシーンがどのように使えるのですか。

中坪: 最初の課題を解決するには、蛇の様に角にぶつからずにスムーズに動くパイプを開発することです。このために特別のセンサーと素材を開発中です。二番目の課題を解決するには体内に入れて手術のおこなえるマイクロロボットを開発する必要があります。体内に入れるマイクロロボットの問題点は、機械が作動するためのエネルギーをどう供給するかということです。この技術にはまだまだ追求すべき課題が残されています。

OBI: 最後になりますが、ご自分で内視鏡検査をうけられ、この技術を利用されるとき、どんなことを感じられますか。

中坪: 正直なところ最初はちょっと怖かったです。しかし何回かやるうちに、特にビデオスコープが開発されてからは、自分の胃を間近に見たくなりました。そして人間の消化器官がとても美しいことに感激しました。私は最初に自分の胃を見たときのことを決して忘れません。 最近は私は毎年二回検査を受けています。私にとっては胃内視鏡は健康管理上欠かすことのできないものになっています。

 オリンパスの内視鏡製品については <http://www.olympus.co.jp/LineUp/Endoscope/endoscope.html> をご覧下さい。

インタビュー: アダルシュ・サンドゥ

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