宇治達夫との出会い - 宇治達夫がオリンパス光学諏訪工場の杉浦睦夫を訪ね胃カメラの開発を依頼した。しかし所長は強く反対した。

汽車の中の討論 - キティー台風によって帰京の汽車のなかに閉じこめられた宇治と杉浦が胃カメラの構想を話し合った。

会社に隠れての開発 - 杉浦は位相差顕微鏡の開発をすすめるかたわら、夜になると、胃の暗さで写真が写るかどうかこっそりテストを始めた。

ガストロカメラと命名 - 深海正治が「フラッシュの研究」という名目で研究陣に加わり、本格的な研究が始まった。



第二次世界大戦で壊滅的な打撃を受けた東京が漸く立ち上がろうとしていた昭和 23 年の秋の事である。空襲の被害を辛うじて逃れた建物の一室に私は研究室を与えられた。これがオリンパス光学の研究所である。そこには研究所長と私の二つの机が並べられてあり、ガスもなければ水道もない。ただ一つ電気コンロがあるだけという空間であった。

.....(中略)

(昭和 24 年の) 8 31 (諏訪工場にいたオリンパス光学研究所の) 宮田所長と位相板のことについて話をしている最中、女子従業員の声がする。

 「杉浦さんお客様ですよ。宇治さんとおっしゃる方ともうお一人」私はドキンとした。

 「渋谷へお訪ねしたら諏訪へ行かれたというので早速この男を連れて後を追いかけてきました」

 というのである。

そういえば信州出張の少し前に会ったお医者さんである。あの時渋谷の研究室にいた私は中野常務に呼び出されて紹介されたことを思い出した。

「君、胃袋の中の写真が撮れないかね? いやレントゲン写真じゃないんだよ。胃袋の中へ直接入れて撮る写真機を作ってくれないか。そんなことをしたいとこの宇治先生がおっしゃるのだが」

ということなのである。私は即座に

「何とかなるでしょう。光とフィルムとレンズがあれば。しかしやってみなければ分かりませんがね」

と答えて研究室へ帰って来た。そのあと、目の前の仕事に忙殺されて私はすっかりそのことを忘れていたのである。それに引換え宇治さんは大分熱心である。わざわざ私を追っかけて諏訪くんだりまで来てくれたとなれば只で帰す訳にはいかない。早速応接室に招じ入れ交々話をする。当時の Memo にはこんなことが書いてある。

100 W × 0.1 sec × 10 × 1/60 × 1/60 = 100/3600 Wh = 1/36 Wh
χW x 0.5 = 0.5χWh = 1/36 Wh × 0.5 = 1/18 W
1/18 W 0.5 h つけると熱発生量は 100 W の電球を 0.1 sec 10 回となる。
というのは「胃鏡」30 分間の検鏡となる。
電球 tub 2 m × 0.7 cmφ (但し硝子部分だけ)
1 kWh = 860 kal
860/36 x 1/1500 = 0.016

今これを見ても判然としないが、宇治さん達と胃鏡などについて語ったことだけは確かである。

「折角おいで下さったのに誠に恐縮ですが、私はどうしても今日東京へ帰らなければならないんです」

申し訳ないと思いながら私が述べると

「では私たちも一緒の汽車で帰ります」

と即座に答えが返ってきた。

私は帰京の挨拶と共にこの宇治さんの 1 件を所長に報告した。

「それは君、駄目だよ。腹の中へカメラを入れるなんて! 第一光がないじゃないか。エネルギー論から云ったって不可能だよ」

所長の剣もほろろの答えが電光石火の如く返ってきた。

「お前はそんなことをしている暇があるのか。もっと大事な位相差顕微鏡の仕事が一刻をあらそっている時なのに」

言外の所長の思いがビリビリと伝わってくるようである。私はああそうですかと云ってはみたものの、内心には「よーし写真が撮れるという実証を見せてやる!」と叫んでいたのである。不可能だという言葉に触発されたのか、我ながら思いもかけぬ比重で腹の中のカメラが我が腹の中に住みついていった。

8 31 午後 4 時何分下諏訪発の準急列車に宇治さんと私、それにもう一人の同行者 3 人は乗り込んだ。窓外は次第に風雨が激しくなっていった。そのうち列車が妙な所で時々停まるのである。車内はムンムンしてきた。そして遂に列車は停まったままで動かなくなってしまった。中央線浅川駅 (現在の高尾駅) である。

「暴風雨のため列車は当分動きません」

というアナウンスである。やれやれ動かぬ車中で一夜を明かすことになるのか (死者 135 名を出した台風キティーが関東一円を荒らしたのである)

その夜はまんじりともせずに 3 人は胃の中を撮る話に夢中になった。まず食道を通って胃の中へ入ったカメラを想像してみる。ああでもない。いやこうかも知れない。それからそれへと想いは駆け巡る。

何しろ体の中のことは皆目知らない技術者と、光学のことは不得手な医者との議論である。お互いの思い違い、行き違いの連続である。しかし、日常の仕事から全く遮断されたこの列車内での長時間ディスカッションは、一気に研究の骨組みを作り上げることになった。あとは一つずつ解決していけばよい。こうなれば実験だ、実験だ、早く実験に取りかかりたい。

「宇治さん、会社へ来て下さい。僕のところで一緒に実験をしようではありませんか」

思えば胃カメラ誕生の運命は昭和 24 8 31 日、キティー台風の夜に決まったのである。

宇治さんの諏訪工場への訪問。

研究所長の「不可能」の言。

キティー台風による思わぬ長時間ディスカッション。

落語の三題噺ではないが、この三つの出来事のうち一つが欠けても今日の胃カメラは生まれなかったであろう。もし生まれていたとしても全く別の道を辿っていたことであろう。

9 月に入ると早々に宇治さんは研究所へ顔を出した。ジャンパー姿で、どう見てもお医者さんとは思えないいでたちである。私の部屋は位相差顕微鏡の一日も早い完成という大命令をかかえて、まず位相板の試作に真空装置が間断なく廻り、皆の神経がピンと張りつめているといった状態にあった。いくら会社を一身に背負っているつもりで自惚れている私でも、所長の許可のない実験を堂々とするわけにはいかない。私は皆の帰るのを待って暗室に入り、宇治さん依頼の実験をこっそり始めた。まず本当に写真が写るかどうかの実験である。真っ暗い所で僅かな光で胃壁が写るだろうか。不安である。夜のネオンサインを撮る時にカメラを振りながら撮れば、ネオンは交流のサイクルにより明滅して 1/100 sec 間隔で撮れるということは知っていたのであるが。

光源としては懐中電灯 (ナショナルの自転車のランプ) を使うことにしよう。被写体は乾板 (イルフォード) の空箱。カメラはオリンパス 35 f = 40 m/m。フィルムはデュポンの ASA 100。すべて手近にあるものである。

カメラを至近距離にあわせて 1/100 秒でシャッターを切る。 F : 5.6, F : 8, F : 11, F : 16 と何枚も撮ってみる。現像は D 72、室温で 4 分。写っているではないか!  ルーペで見ながら確認をする。F : 8, F :

11 でも乾板の字が読めるのである。やった、これでよし。安心してこれから先の研究が出来るというものである。嬉しい、とにかく嬉しい。ガランとした暗室の中で飛び上がって叫んだ。

「懐中電灯の光で、反射光で、1/100 sec で撮れるんだ。しかも F:11 !

... (中略)

10 月の会社創立記念日にはいよいよ位相差顕微鏡の発表がある。こんな喜びは生まれて始めてである。我が生涯でもそう何度もあるとは思えない程のものであった。

有頂天になりそうなところで宇治さんの顔が目に浮かんだ。あんなに熱心な宇治さんとの実験があまり進んでいないのである。もう我慢が出来ないところへ来ている。

今のままではいくら夜を日につぎ、徹夜の連続をしたところで限りがある。「ああ人が欲しい」それからというもの私は人をくれと口ぐせのように叫びつづけた。その甲斐あって、諏訪工場から深海正治という男が研究所へ転勤して来たのである。表向きは「フラッシュの研究」ということであった。

12 24 日、Xマスイブで賑わう夜、宇治さん、深海君とディスカッションをする。

GASTRO-PHOTOR .... Gastro-Camera
胃内写真器 ....... Gasotro Photographic Camera
胃内写真 ....... Gastro-Photo などの文字が書いてある。

とにかく我々だけで「ガストロカメラ」と命名したのはこの日であるらしい。

更にこのあとに、1 f = 10 m/m

F : 20 の記載あり。

12 30 日 レンズ設計
1 10 日 機械設計
電球 (タイプ U〜W)
1 20 日 露出タイマー
1 30 日 フィルム切断器
電球決定
2 月から動物実験、出来れば人体実験
2 10 日 レンズ工作
機械工作
2 20 日頃より動物実験
3 1 日頃より人体実験

こんな予定表が記してある。

実際はこの予定通りにはいかなかったのであるが、この時既に胃カメラは正式とまではいかなくても公然と研究テーマの仲間入りをしていたことは確かなようである。日陰の子がどうやって表に出て来たか、今となってはあまり判然としないが、とにかく私の強引さには我ながら唖然としている。若さがなせるわざとでも云うべきであろうか。

杉浦睦夫「私の古い『研究 MEMO』より」、日本医学写真学会雑誌 23 (1), 14-17 (1985).

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